LOGIN白い花に、返事を書くべきか。
ノエルは朝から、そのことで悩んでいた。 白い花そのものは、もう小部屋にはない。 薬師が調べ、監査官が記録し、今は証拠保管庫にしまわれている。 ノエルの部屋にも、食卓にも、廊下にもない。 それでも、花というものは不思議だった。 そこになくても、匂いだけが残るような気がする。 実際には匂わない。 けれど、頭の中で白い花が咲いている。 そういう顔を、ノエルはしていた。 朝食の卵は、三分の一だけ食べた。 スープはよく飲んだ。 硬いパンは、今日はスープに入れない。 机の下では、犬のパンが丸くなっている。 昨日、リナに貸し出されなかったことを知っているのか知らないのか、相変わらずのんきな顔だ。「白い花は、あノエルの箱を、裁判の道具にする。 その申立書を読み返すたびに、セレスティアは自分の指先が冷えていくのを感じた。 怒りというものは、熱いだけではない。 本当に腹の底まで落ちると、むしろ静かになる。 紙の上の文字は丁寧だった。 被害児童の精神状態。 後見人による誘導の可能性。 箱内文書の提出。 必要な確認。 どれも、裁判所へ出す文書としては整っている。 けれど、その整った言葉の下にあるものは単純だった。 ノエルが自分で怒っているはずがない。 ノエルが自分で考えられるはずがない。 だから、箱を開けろ。 気持ちを出せ。 大人の争いの材料にしろ。 セレスティアは、ペンを握った。 強く握りすぎて、指が痛い。「ペンが折れる」 向かい側からリュシアンが言った。 彼は机の前で腕を組んでいる。 机を殴らない代わりに、机を睨んでいた。 机は無実だ。 だが、かなり不安そうに見える。 いや、机に表情はない。 ないのだが、最近セレスティアの中でも、家具への同情心が芽生えつつある。 よくない傾向かもしれない。「閣下こそ、机を睨まないでください」「睨んでいない」「今、机が遺書を書きそうな顔をしています」「机に顔はない」「顔が元からだと言う方に言われたくありません」 リュシアンは一瞬黙った。「…&hell
裁判の日取りが決まった知らせは、朝食の前に届いた。 封筒は灰色だった。 白ではない。 青でもない。 黄色でもない。 ただ、役所の棚に長く置かれていそうな、何の感情もない灰色。 それが逆に、少し怖かった。 伯爵夫人の白い花や、ミレイユの青い封筒や、黄色い未来の封筒は、色があるぶん、こちらも身構えられる。 けれど、裁判所からの封書は違う。 感情を剥がした顔で、淡々と人の罪と罰を並べる。 セレスティアはその封筒を受け取った瞬間、指先が少し冷たくなった。 リュシアンは、すでに書斎にいた。 最近、朝の報告は二人で受けることが増えている。 それが当然のようになっていることに、セレスティアは時々気づいて、時々気づかないふりをした。「裁判所からです」 家令が言った。「初回審理の日程通知と、関係者への出席要請でございます」 リュシアンの眉間が深くなる。 机が少し心配そうに見えた。 いや、机に感情はない。 けれど最近、セレスティアまでそういうことを考えるようになっている。 完全にノエルの影響だ。「顔」 セレスティアが小さく言うと、リュシアンは封書から目を離さずに答えた。「まだ読んでいない」「読まなくても出ています」「顔は元からだ」「今日は、その言い訳は三割だけ許します」「なぜ三割」「裁判所の封筒なので」「基準が分からない」「私もです」 家令は何も聞こえなかったように立っている。 この屋敷の家令は本当に
金庫の扉は、閉じたあとも重かった。 音が、しばらく耳に残る。 ごん、と低く響いたあの音は、ただ金属が噛み合っただけの音ではなかった。 今日は読まない。 十歳まで絶対読まないとも、今日決めない。 半年後の自分に、もう一度聞く。 ノエルがそう決めた音だった。 その日の翌朝、ノエルはいつもより少し遅く起きた。 疲れたのだろう。 十歳の手紙を読まなかっただけなのに、まるで長い旅から帰ってきたような顔をしていた。 寝癖も少しついている。 髪の左側だけ、ふわりと跳ねていた。 セレスティアが櫛を手にすると、ノエルは鏡の前で自分の髪を見て、ぽつりと言った。「十歳の手紙は、昨日も泣きませんでしたか」「手紙は泣きません」「でも、頭の中では泣くかもしれません」「そうね」「昨日の夜は、泣きませんでした」「ノエルが?」「はい。少しだけ泣くかと思ったけど、眠くなりました」「たくさん考えたからね」「考えると、眠くなります」「とても自然なことです」「伯父さまは、考えると棚を壊しそうになります」 セレスティアは、櫛を止めた。「それは、あとで本人に伝えますか」「伝えます」「では、少し柔らかく」「伯父さまは、考えると棚を心配させます」「……柔らかくなったかしら」「少し」 ノエルは真剣だった。 こういう時のノエルは、冗談を言っているのか、本気なのか分からない。 たぶん、両方だ。
エリス・モーランが公爵邸を訪れたのは、昼前だった。 その日は朝から、屋敷の中に妙な緊張があった。 嵐の前というほど激しくはない。 けれど、食卓の皿を置く音が少しだけ小さくなり、侍女たちの歩く速度がいつもより慎重になる。 そういう緊張だ。 ノエルは朝食の席で、黄色い花を見ながらスープを飲んだ。 一口。 少し間を置いて、もう一口。 硬いパンは皿の横に置いたままだった。 犬のパンは机の下にいる。 今日は、ノエルの靴先に鼻を押しつけていた。「パンは、今日も分かっていません」 ノエルが言った。「そうね」 セレスティアは頷いた。「でも、います」「ええ」「分からなくても、いていいです」「そうね」 リュシアンが、食卓の向こうで小さく頷いた。「それは重要だ」 ノエルは少しだけ彼を見る。「伯父さまも、分からなくてもいますか」「いる」「今日は、十歳の手紙のことが分からないです」「私も分からない」「伯父さまも?」「ああ」「大人なのに?」「大人でも、分からないことはある」「逃げる言い方ですか」「逃げていない」 リュシアンは即答した。 最近、彼はそこだけ少し早くなった。 ノエルに何度も「逃げる言い方です」と言われたせいだろう。「大人でも分からない。だから、専門官に相談する」 ノエルは、スプーンを持ったまま考え込んだ。
青い封筒の話は、一晩眠っても薄くならなかった。 むしろ、朝になってからのほうが濃くなった。 ノエルは朝食の席で、スプーンを持ったまま黄色い花を見つめていた。 食卓の中央に置かれた小さな花。 昨日より少しだけ花びらが開いている。 その下には、まだノエルの紙が置かれている。『今日は、黄色です』 その紙は、白い花を見ないと決めた日のものだ。 けれど今朝のノエルは、黄色を見てもすぐには笑わなかった。 膝の上には布兎。 本物の青いリボンは、耳に結ばれている。 犬のパンは机の下にいたが、ノエルの足に顎を乗せている。 たぶん慰めているのではない。 ちょうどよい高さだから乗せているだけだ。 それでも、今朝はその重みが少し役に立っているようだった。「青い封筒は」 ノエルが言った。 スープには手をつけていない。「セレスティアさまのお名前でした」「ええ」「ティアって」「ええ」「それは、セレスティアさまの古い名前ですか」「古い呼び方ね」「お母さまだけ?」 セレスティアは、少しだけ胸の奥が痛んだ。「昔は、ミレイユがそう呼んでいました」「わたしは呼びません」「もちろん」「呼んだほうがいいですか」「いいえ」「呼びません」 ノエルは少し強く言った。 怒っている。 名前に怒っているのではない。 その名前で、母がセレスティアへまた何かを渡したことに怒っている。
青い封筒のことを、ノエルへいつ伝えるか。 その話し合いは、朝食のスープが少し冷めてから始まった。 正確には、話し合いというより、ノエルが気づいた。 食卓には黄色い花がある。 昨日より新しい花だ。 白い花は証拠保管庫。 青いリボンは布兎の耳。 偽物の青は布袋。 アルベルトの罪はアルベルトが持って帰るもの。 場所が決まったものたちは、少しずつノエルの世界の中で落ち着き始めていた。 けれど大人の顔は、まだ落ち着いていなかった。 それをノエルは見逃さない。「まだ何かありますか」 スプーンを置いて、そう聞いた。 セレスティアは返事の前に、リュシアンを見る。 リュシアンは短く頷いた。 逃げない。 今朝の合図はそれだった。「あります」 セレスティアは答えた。 ノエルは布兎の耳の青いリボンを指で押さえる。「お父さまですか」「少し関係があります。でも、お父様だけの話ではありません」「おばあさま?」「違います」「お母さま?」 セレスティアは頷いた。「お母様が隠したかもしれないものが、見つかるかもしれません」 ノエルは黙った。 それから、ゆっくり聞いた。「色は?」「青です」 その瞬間、ノエルの手に力が入った。 布兎の耳が少し曲がる。「青は、ここです」「ええ。本物の青いリボンはここにあります」「偽物の青も戻りました」